THE Wはなぜ酷評されるのか?審査基準のブレと構造的欠陥
the w つまらないという手厳しいフレーズが、決勝の生放送が始まると同時にSNSのタイムラインを埋め尽くす光景は、もはや年末の風物詩と化してしまった。「女芸人No.1決定戦 THE W」が産声を上げてから回を重ね、大会自体の知名度は完全に定着した。だが、お茶の間の画面越しに伝わる違和感やフラストレーションは、年々薄れるどころか、むしろ鋭利に研ぎ澄まされているようにすら映る。
スタジオに響き渡るきらびやかなファンファーレとは裏腹に、なぜこれほど毎年「the w つまらない」という烙印を押されてしまうのか。視聴率やネット上の再生数が一定の熱量を維持している裏で、演者、審査員、そして番組制作陣が抱える根深いジレンマを紐解くと、単なる「ネタの出来・不出来」では片付けられない、日本のテレビ放送業界が抱える構造的病理が浮かび上がってくる。
「THE Wがつまらない」と酷評される本当の理由とは?審査基準のブレと舞台裏の真相
酷評の引き金として最も多く槍玉に挙げられるのが、審査基準の曖昧さとルール設計の揺らぎだ。これまで審査員席の顔ぶれや一般審査員の導入、さらには投票方式が幾度となくマイナーチェンジを繰り返してきた事実そのものが、制作側がいまだに「正解の物差し」を見つけ出せていない混乱を物語っている。
民放キー局のバラエティ制作デスクは、匿名を条件に舞台裏の内情をこう明かす。「他の賞レースと違って、THE Wは『何をもって一番とするか』のコンセンサスが審査員の間でも視聴者の間でも共有されていません。純粋な笑いの量なのか、構成美なのか、あるいは女性芸人の生き様やキャラクター性への共感なのか。基準が可変的だからこそ、審査結果が出るたびに『なぜあのネタが勝つのか』と視聴者が納得感を失い、不満が爆発するのです」。
歴代の勝者たちが披露してきたネタを振り返っても、圧倒的な爆笑をかっさらって文句なしの戴冠を果たした例がある一方で、トーナメントの組み合わせの妙や審査員の好みの偏りによって勝ち上がったと見なされた例も少なくない。勝敗のロジックが不透明な戦いは、観客にとってカタルシスではなく徒労感しか残さない。この「納得感の欠如」こそが、視聴者にチャンネルを変えさせる第一の障壁となっている。
漫才とコントの異種格闘技戦が生む「笑いのノイズ」とM-1との決定的差異
競技のフォーマットそのものにも、致命的な無理が生じている。今大会の最大の特徴であり弱点でもあるのが、漫才、コント、ピン芸、音楽ネタ、果ては古典落語までが同じ土俵で激突する「異種格闘技」のスタイルだ。
同じお笑い賞レースの最高峰に君臨するM-1グランプリが、漫才という厳密なフレームワークの中で極限のテンポと論理を競い合わせるのに対し、THE Wには共通の規矩(きく)が存在しない。緻密な伏線回収を見せる演劇的コントの直後に、小道具を乱暴に振り回すナンセンスなピン芸が登場し、その横で正統派のしゃべくり漫才が審査を待つ。これでは、鑑賞する側の脳内スイッチが追いつかない。
ジャンルが違えば、笑いが発生するメカニズムもタイム感も異なる。比較不能な表現を無理やり1対1で戦わせるノックアウト方式は、どうしても「どちらが優れているか」ではなく「どちらが自分の好みのジャンルか」という主観的な審美眼に頼らざるを得ない。結果として、客席には評価軸のズレによる奇妙なノイズが立ち込めることになる。
田中卓志や審査員陣の苦悶――プロを悩ませる採点システムとルールの弊害
審査員席に座るトップクリエイターたちの苦悩も深刻だ。なかでも、アンガールズの田中卓志が発する緻密で妥協のない講評は、お笑いファンの間で極めて高い評価を得ている。彼はネタの構造、テンポ、ボケの間合いを論理的に解体し、何が足りず何が優れていたかを言語化しようと孤軍奮闘を続ける。
しかし、どれほど田中卓志のようなプロが的確な批評を試みても、現行の採点システムがその努力を相殺してしまう場面が散見される。点数制ではなく「どちらか一方の札を上げる」二者択一のシステムでは、僅差の敗者が全否定されたかのように見え、勝ち上がった側の粗が目立つ。審査員が頭を抱え、苦渋の表情でボタンを押す姿は、真剣勝負の緊張感というより、ルールの不備に対する困惑として視聴者の目に映ってしまうのだ。
後藤輝基と水卜麻美の手腕でも埋まらない生放送特有のスタジオ空気感
生放送を取り仕切るMC陣の奮闘にも触れねばならない。抜群の反射神経と鋭いツッコミで混沌とした空気を瞬時に整流するフットボールアワーの後藤輝基、そして卓越したアナウンス力と温かい包容力で演者を支える日本テレビの水卜麻美。この二人のコンビネーションは、民放の大型特番の中でも間違いなく最高峰の安定感を誇る。
それでもなお拭えないのが、日本テレビのスタジオに漂う独特の「重さ」だ。劇場のような濃密な笑いの空間とは異なり、広大すぎるフロアと過剰なセットは、芸人が放つ細微なニュアンスや狂気を拡散させ、冷ましてしまう。後藤輝基が懸命にフォローの言葉を投げ込み、水卜麻美が笑顔で場を繋いでも、一度冷え切った客席の温度を取り戻すのは至難の業だ。スタジオ内の張り詰めた緊張感と、画面の前の視聴者の体感温度との乖離は、司会者の卓越した話術をもってしても埋められない溝となっている。
日本テレビ放送網と吉本興業の思惑、TVer・Hulu配信時代の新たな生存戦略
番組を取り巻くビジネスモデルの変容も、大会の質に直結している。制作を担う日本テレビ放送網と、多くの有力芸人を送り込む吉本興業をはじめとする芸能事務所。両者の力学は、地上波のリアルタイム視聴率だけでなく、TVerでの見逃し配信再生数や、Huluでのスピンオフ・舞台裏密着といったデジタル展開へと大きくシフトした。
配信プラットフォームを意識した番組作りは、即効性のあるキャラクターやSNSで切り抜かれやすいインパクト重視のネタを優遇する土壌を生みやすい。深みのある構成やじっくりと間を取る話芸よりも、瞬間的な奇抜さや強烈なフレーズが重用される傾向が強まる。結果として、地上波の生放送で通して見た視聴者には「底が浅い」「内輪ノリばかりでつまらない」と映ってしまうパラドックスが生じている。
日本のテレビ放送業界における「女性芸人限定」枠の限界と未来への処方箋
根本的な問いに立ち返る必要がある。そもそも「女性芸人限定」という枠組み自体が、賞レースとして時代に合致しているのかという点だ。ジェンダーレスな視点が浸透し、性別に関係なく純粋な実力でしのぎを削る時代において、女性という属性だけでひと括りにする大会の立て付けそのものに、視聴者が無意識の欺瞞を感じ取っている可能性は否定できない。
「女性だけで集まるからこそ生まれる熱気がある」という擁護論も根強く存在する。確かに、女性芸人がテレビ界で不遇をかこってきた時代に対するポジティブ・アクションとしての意義は大きかった。しかし、各所で実力派が台頭した今、限定枠の存在がかえって「男性トップ層と戦わせない保護区」のように見えてしまう皮肉を孕んでいる。
問われているのは、大会の存在意義の再定義だ。性別の壁を取り払うのか、あるいは審査方法とネタの選定基準を根本から見直し、他大会にはない独自の尖った美学を打ち立てるのか。安易な話題性に逃げず、演者の魂の削り合いに敬意を払った真摯な番組作りへと舵を切らない限り、冬の夜空に響く冷ややかな批判の声を止めることはできない。 (出典: the w つまらない(Yahoo!ニュース))